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去り行く一切は、比喩に過ぎない。
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当ブログ【飴/色/信/号】は
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日々のつれづれから801トークまで
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海理/かいり:
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フランシス兄ちゃんと誕生日一緒。
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鎖国は祖法故
2008/12/02(Tue) 21:57:56
以前書いたブリティッシュジョーク
『日本製の車は足を出して乗らないといけない(=トヨタは俺には小さすギルぜ)』
が、いかがわしい意味に取れるよねって、教えてくれた張本人のりりぃさんは言うのですが、
そんなこと思いついてる暇があったらりりぃさんはもっと英日読むとかSA☆
と私は思ってやみません。
HONDAもとい本田は俺には小さすぎるぜ的な意味ですよねうんうん。
原文が『狭すぎる』だとより一層良かったと思います。
しかも狭いのに足を出してでも乗るといういぎいぎの頑張りを加味すると
本田は俺には狭すぎて乗るのが大変とか…凄く…卑猥です…

個人的に最近考えているのは
本家様のハッピーインディペンデンスデイまんがでイギリスが語る
『メリカの誕生日前の憂鬱』の症状がテラ女の子の日\(^o^)/
とかそういうかんじ!

ぁ、日本が開国する時にあれほど過激な攘夷運動が起きたのは、
日本は建国以来ずっと鎖国をしてるんだと思われていたからなんだそうです。
昔は歴史書の類はほとんど出回っていなかったため、
日本の正史を知る人はごく一部…そもそも居たのかどうかも分かりませんが。
また、日本の行く末を憂う志士達が競って読んだ
頼山陽の『日本外史』という本があるのですが、
この本にも記述があるのは徳川二代将軍秀忠まで。
つまりは鎖国を開始した記述が無いのです。
そのため、伝統ある方針を易々とは変えられないと考えた人も多ければ、
執拗なまでにそれに固執した人も多かったのですね。
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MO☆E☆RU
そういうわけで今週の日本史のコーナーです。お察しの通り今作りました。

◆通商条約
1854年の和親条約を経て、めでたく日本を家から引きずり出したアメリカですが、
日本が開港を許したのは下田と函館、あとは長崎の三箇所だけ。
鯨漁の際の燃料・食料を供給してもらうのが開国要求の最たる目的だったとはいえ、
段々と「せっかくだしもう貿易してくれてもいいんじゃないかなー」という
思いを強め出します。
1856年以降、領事として日本に着任していたハリスは、
1858年、時の老中堀田正睦と通商条約締結について交渉を始めました。
ここで交渉の切り札、またの名を脅し文句として利用されたのが、
アロー号事件(アロー戦争)、そしてそれに伴う天津・北京条約でした。

※アヘン戦争後の南京条約により、
 優位に対清貿易を行えることとなったイギリスですが、
 開港はしたものの内地へ入ることは認められず、
 また清国内での反英運動もあって、
 期待した程の利益は上がりませんでした。
 そのためイギリス政界では、
 戦争を起こしてでも条約改正を求めるべきだとの意見が強くなってきました。

 その絶好の口実とされたのがアロー号事件です。
 1856年10月8日、清はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、
 清人船員12名を海賊の容疑で逮捕しました。
 この船員逮捕は全くの合法だったのですが、
 当時の広東領事パークスは
 イギリス船籍の船に対する清の臨検は不当である、
 また逮捕時に清が英国旗を引きずり下ろした事は
 我が大英帝国に対する侮辱だと難癖をつけます。

 ついでに、フランス人宣教師が広西省で殺害された事件も利用。
 イギリスはフランスのナポレオン3世を誘って清に宣戦布告しました。

 英仏連合軍は広州を占領、その後天津に迫ったため清は降伏し
 天津条約が結ばれますが、清はこれを批准しませんでした。
 当然ながら戦争が再会され、英仏軍は今度は北京を占領。
 1860年、北京条約が結ばれます。
 この条約により、清は天津の開港、イギリスへの九竜半島の割譲、
 中国人の海外への渡航許可(→海外で労働力として使用される)などを
 認めなければなりませんでした。

つまりは
「また頑固になってると(清みたいに)イギリスが来ちゃうよ?
 イギリスはひどいからねー…どんなことされるかわかんないよ?」
(※↑補足箇所以外は先生の言った原文まま)
だからさっさと条約結びなよ。とそういう意図だったわけですね。
日本の弱いところを突いた、実に嫌な攻撃だと思います。そこに痺れて憧れる。
にしても清での一連のアーサーの鬼畜っぷりに嫉妬(^q^)

結局、堀田が条約調印の許可を求めて上洛していたスキに
大老の地位についた井伊直弼が条約に調印。
1858年7月29日、日米修好通商条約が結ばれました。
同様の条約は英・仏・蘭・露とも結ばれ、まとめて安政五カ国条約と呼ばれます。
治外法権に協定関税にと、これはいい不平等条約^^なわけですが、
まぁ国力が無い以上どうしようもないので日本は1860年これを批准しました。
こうして、日本は諸外国との貿易を開始したのでした。

◆貿易模様
全貿易量の80%が神奈川・横浜で取引されていました。
貿易相手国は80%がイギリス。
アメリカは南北戦争で忙しかったのであんま来なかったのですね。
輸入品はイギリスお得意の毛織物・綿織物・あとは武器とか戦艦とか。
日本からの輸出品は、生糸がこれまた80%を占め、他は茶や海産物など。
お茶は当然日本茶なわけですが、煎って紅茶として飲まれたそうです。
この紅茶エピソードだけで小話が書ける。
Engels/Ingles/英吉利
2008/11/14(Fri) 23:38:13
APH本を読んでいた際に英日のマイナー度合いを嘆いたら、
マイナーであるというその事実に場に居た2人くらいが驚いていました。
米英が王道なんだぜと言うと「米英はまぁ分かるけど英日も同じくらいあるのかと」
って。
違うんだよ。
なんか、近くに騒いでるヤツが居ると誤解しがちですが
本家でこの2人メインの話探すと実質2本しかないからね。
あとは「同じコマに居た」「会話した」レベルで狂喜乱舞だからね。
そもそも日本が世界史的に一番美味しい時代に引きこもってたのがいけないと思います。
欧州での痴話喧嘩なんてどこ吹く風な上に、来てくれた国は追い返すなんて。
絡めにくいにもほどがあるわァァァァァァ


歴史的絡みといえば大正…昭和?の同盟しか無いことに定評のある英日ですが、
江戸期にも別に…丸っきり無いわけじゃないんだぜ…
というわけで、今回はそれを紹介しようという趣旨であります。幕末まで。
前フリ長くてすまん。
俺がディランディの嫁
2008/10/29(Wed) 23:03:37
「2次元キャラとの結婚、法的に認めて」――署名募集中

ついに日本も一夫多妻・一妻多夫制を取り入れる時がやってきたのか…テラ先進的
『重婚はやんわりと認容して欲しいと思う』に盛大に噴いたwwww
長門の夫何人にするつもりだよwwwwwww
とりあえずアテムとキョン子は私が頂きますね


日本の国旗の汎用性の高さに嫉妬
(比較対象:ウェールズ)
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