去り行く一切は、比喩に過ぎない。
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当ブログ【飴/色/信/号】は
海理の運営する個人ブログです。 日々のつれづれから801トークまで 無秩序に記事が書かれています。 回覧は自己責任でお願いします。 海理/かいり: 大学院生。 フランシス兄ちゃんと誕生日一緒。 ◇好きなもの ・SEED/DESTINY/00 ・Sound Horizon ・YGO(DM) ・APH ・艦これ ・アスキラキラアスアスシン カヲシン古キョン闇表ロク刹 朝菊独普独BA青黒 ◆目下夢中なもの ・島国同盟 ・榛名ちゃんと加賀さん ・日本は俺の国 ・英国は俺の嫁
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大学に入ってから読んだまともな本
買った本とか色々 |
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Engels/Ingles/英吉利
2008/11/14(Fri) 23:38:13
APH本を読んでいた際に英日のマイナー度合いを嘆いたら、
マイナーであるというその事実に場に居た2人くらいが驚いていました。 米英が王道なんだぜと言うと「米英はまぁ分かるけど英日も同じくらいあるのかと」 って。 違うんだよ。 なんか、近くに騒いでるヤツが居ると誤解しがちですが 本家でこの2人メインの話探すと実質2本しかないからね。 あとは「同じコマに居た」「会話した」レベルで狂喜乱舞だからね。 そもそも日本が世界史的に一番美味しい時代に引きこもってたのがいけないと思います。 欧州での痴話喧嘩なんてどこ吹く風な上に、来てくれた国は追い返すなんて。 絡めにくいにもほどがあるわァァァァァァ で 歴史的絡みといえば大正…昭和?の同盟しか無いことに定評のある英日ですが、 江戸期にも別に…丸っきり無いわけじゃないんだぜ… というわけで、今回はそれを紹介しようという趣旨であります。幕末まで。 前フリ長くてすまん。
◆契機
16世紀、大航海時代。 欧州各国は世界中の未知なる国々を目指し、羅針盤と共に欧州を飛び出しました。 ある国は新大陸へ、ある国はインドへ、――そして、ある国は日本へ辿り着いたのです。 行ったこともない国のことを妄想補完して書いたマルコ・ポーロの『東方見聞録』の影響もあり、 極東の島国ジパング(メイドバイゴールド)への興味は欧州内で強まっていました。 そんなジパングにいち早く到着したのが、現在ではちょっぴり影の薄いポルトガル。 以後予算を鉄砲に、1543年のことでした。 これを期に、日本は南蛮、すなわち西洋との貿易に乗り出したのです。 ◆邂逅 日本とイギリスのお付き合いは、 1613年、イギリス軍人ジョン=セーリスの来航から始まります。 外交顧問として家康の側近を勤めていた英国人 ウィリアム=アダムス(日本名:三浦按針)の手引きにより、 英国王ジェームス1世の使節として平戸に来航したジョンは、 アダムスとともに江戸に下り徳川家康と会見、 貿易許可を得て平戸に商館を開設しました。 ◆断絶 やっと絡みが来たと思ったのも束の間。 イギリスは当時絶好調なオランダとの貿易競争に敗れたため 経営不振に陥り平戸の商館を閉鎖、対日本貿易から撤退せざるを得なくなりました。 1623年、貿易開始からわずか10年後のことでした。 イギリスは日本の鎖国政策に追い出されたのではなく、 競争に敗れたゆえに仕方なくというのがここでの萌えどころですね。 「それでは…イギリスさんはもういらっしゃらないのですね…」 「…済まない。オランダを敗るべきだったのに、俺に力が無いばかりに…!」 「いいんです。お会い出来なくなるのはとても残念ですが…お体、ご自愛下さいね」 「だが!」 「(ry 的なメロドロマが生まれますね。誰かこのへんネタにすべき。 ◆再会 市民革命と産業革命、大きな2つの革命を経験したイギリスが、再び日本に接近します。 時は1808年。最後に会った時から、早200年近くが経過していました。 鎖国下の日本が通商を行っていた国が清とオランダだけというのは有名な話ですが、 そのオランダは当時フランスのナポレオン軍に占領されている真っ最中。 世界各地にあったオランダの植民地は、イギリスが回収することになっており、 もはやオランダ国旗が掲げられている地は世界でも出島しかなくなっていました。 出島とは、アメリカからチャーターした船でかろうじて貿易を続けていたのです。 けれどイギリスはそこも見逃しませんでした。積年の恨み今こそ晴らす時。 オランダの持つ日本との貿易独占権を奪うため、 (どうでもいいがパっと見で『オランダが持つ日本の独占権を奪う』に見えました) 日本近海でオランダ船を待ち構えるのですが、 どうもオランダ側にイギリス船出没との情報が行っていたらしく 待てども待てどもオランダ船はやってきません。 持久戦になり食料や飲料水が尽きてきたため、 イギリス船――フェートン号はオランダ船を装って長崎港に不法侵入しました。 オランダ商館員を人質に取ったフェートン号、 装備した大砲や銃をちらつかせながら長崎奉行に書状を出します。 『英国船フェートン号です。人質は傷つけるつもりはないのでご安心を。 食用の牛4頭・山羊12頭・沢山の野菜・船数隻・上等な煙草なんかが 欲しいなと思っているところです。 聞き入れられない場合は、港内の唐船・日本船を初め 市中にいたるまで全て焼き払うことも出来ますがなにか?』 どうみても脅しです本当にありがとうございました 本来は規定以外の外国船は港に入れることすら許されていないため、 焼き払うべきだと長崎奉行は考えるのですが、 長崎の脆弱な戦争設備を知っていたオランダ商館長の進言もあり、 結局大人しく要求に従うしかありませんでした。 食料その他を手に入れたフェートン号は、ユニオンジャックを翻し港を去りました。 …すごく…最悪です… 紳士だったイギリスは何処に行ってしまったのでしょうか。 「イギリスさん…どうして……」 むしろこっちが本質だとかは日本は知るよしもありません。 愛が擦れ違うえいにちもえええええ ちなみに長崎奉行はその後責任を取るため自害しています。 ◆固執 敵意だけを残して去って行ったイギリス来航以後、 日本は鎖国の維持のため様々なことを考え直さなければなりませんでした。 外交政策も変化します。 それまで出ていた『文化の撫恤令(薪水給与令)』 (燃料や食料を外国船が要求してくれば与える代わりに早々に国外に退去してもらう) を撤廃し、『異国船打払令』が出されます。 この令は『無二念打払令』とも呼ばれ、 「オランダ船と他外国船との区別なんてつかないッス」という家臣に対し 「外国船なら二念無く打ち払え。オランダ船ならあとで幕府が謝っとく」 として非常に厳しく、また時代錯誤なものでした。 その打払令のもと起きたのが1837年のモリソン号事件。 遭難した商人を保護し連れて来たアメリカ船モリソン号に攻撃を仕掛けたもので、 蘭学者などの批判を浴びますが、幕府は批判者を処罰・この方針を維持し続けました。 ◆転換 そんな日本も、1842年には対応を改めざるを得ませんでした。 古来より大国と仰ぎ続けていた清が、イギリスとのアヘン戦争により 壊滅的な被害を受けたという話が入ってきたのです。 気の毒だけれど清の二の舞はゴメンですと考えた日本は、 『天保の薪水給与令』を発布。 内情はともかく、国としては外国船に逆らわない方針へ舵を切りなおしたのです。 アメリカ・イギリス・フランス・ロシアと和親条約を結ぶ、12年前のことでした。 PR |