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去り行く一切は、比喩に過ぎない。
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海理/かいり:
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蹇蹇録
2009/01/17(Sat) 03:06:30
今週の日本史でイングランドのツンデレのハイレベルさを感じました。

◆不平等条約改正過程の日本と英国
・寺島宗則の改正交渉(1878)
 税権回復を目指し、日米修好通商条約を部分修正する形で
 米国との新条約調印を行おうとした。
 しかし、英・独の反対とハートレー事件に伴う世論の反対で挫折。
 ※片務的最恵国待遇があるので、1カ国でも反対すると条約改正不可能
 ※ハートレー事件とは英国商人が日本にアヘン密輸してたのに治外法権のせいで
  有罪に出来なかったという事件。これが起きたことで、
  「治外法権撤廃の方が先だろ常考」という世論に流れたのですね。

・井上馨の改正交渉(1882~87)
 極端なまでの欧化政策を取ることで近代化した日本をアピールしたうえで、
 関係諸国と合同条約改正会議を開き、輸入関税引き上げと治外法権撤廃を目指した。
 しかし、日本の余りに欧米に譲歩した改正内容に難色を示したボアソナードや
 在野諸勢力の反対を受けたうえに、ノルマントン号事件が起こったため
 欧化政策を推し進める井上外相は辞任を余儀なくされた。
 ※ボアソナードは日本の刑法とか作った仏人。
  「裁判所に外国人判事を採用するなんて独立国として有りえない」と反対
 ※ノルマントン号事件とは、紀伊半島沖で沈没した船の乗客のうち、
  欧米人は全員無事だったにも関わらず日本人は全員死亡した事件。
  「日本語だったし何言ってるか分かんなかったので助けなかった」と船長は語るが
  海に投げ出されてパニックになった人が発する言葉なんて全世界共通と言っていいだろ。
  ノルマントン号はみんなご存知英国船。

・大隈重信の改正交渉(1888~89)
 合同会議方式を諦めて、国別談判方式で交渉を進める方針に転換。
 目指す改正内容自体は井上と大きく変わったわけではないが、
 外国人判事の任用を大審院のみとした。
 しかし、国内からの反対を避けるため秘密裏に交渉が進んでいる事実が
 ロンドンタイムズに普通に暴露されたため
 日本の新聞にも掲載されて、結果政府内外からの反対を受けて挫折。
 霞ヶ関事件で大隈は失脚する。
 ※霞ヶ関事件で襲われた大隈は片足を失う重症で文字通り失きゃk(ry

・青木周蔵の改正交渉(1891)
 『最恵国待遇を相互に認める』
 『新条約実施の6年後に領事裁判権撤廃・関税自主権回復』
 …という今までの改正交渉の中で最も日本に有利な改正内容だったにも関わらず
 英国がこれに同意
 英国の同意を得ればこっちのもんなのであとは推し進めるだけだったが、
 大津事件(後述)が起きて青木が辞任してしまったためここで終わってしまう。

・陸奥宗光の改正交渉
 『最恵国待遇を交互に認め、領事裁判権撤廃・税権一部回復』
 この内容に英国が同意。
 日英通商航海条約を調印。
 これを皮切りに、他14カ国とも調印が進む。
 背景としては、アジアでの英露対立が激化し、
 南下政策を進める露に対抗するため日本に接近したかったという思惑がある様子。
  :
  :
・小村寿太郎の改正交渉(1911)
 関税自主権完全回復。不平等条約完全撤廃に成功。

◆大津事件
1891年、訪日中のロシア皇太子ニコライを、大津にて巡査津田三蔵が突然傷付けた事件。
この責任を取って外相青木周蔵は辞任、日本の不平等条約改正は数年遅れることとなった。
政府に屈することなく、司法権の独立を守った事件としても知られる。

皇太子が訪日することとなった日本では、西南戦争後にロシアに亡命した西郷隆盛が
今回皇太子に同行して帰国するという、根も葉も無い噂が飛び交っていた。
西南戦争時に西郷の敵側だった津田は、西郷が帰って来る以上はただでは済まない、
自分は報復されるという強迫観念にとり憑かれ、
沿道警備中(巡査だから)に皇太子の乗った人力車が目の前を通った時、
発作的にサーベルを抜き放ちニコライを斬りつけた。
すぐに津田が人力車夫2人に取り押さえられたため、命までは落とさなかったニコライだが
額と背を斬られる重傷であることには変わりがなかった。

当時世界一とまで言われた陸軍を有する大国ロシアに敵対視されては大変と
日本中が大パニックに。
入院するニコライのもとには日本中から1万通を超えるお詫びの手紙が届き、
1人の女性は自分が責任を取ると言って病院の前で立腹を切った。
(※立ったまま切腹すること。男でもまずやらないほど大変らしい)

津田を止めた人力車夫2人は英雄として持て囃されて、
花街ではファンクラブが結成され、
政府からは日本中終生何処でも使えるゴールデンパスを与えられた。
提示すれば何だろうと政府が金を肩代わりしてくれる夢のカードで、
こんなものが発行されたのは日本史上あとにも先にもこの時だけである。

ところが、日露戦争の勃発で世間の態度は一変する。
なんであの時ロシア人なんて助けた、と糾弾される羽目になり、
家には石が投げつけられるという嫌がらせまで受ける始末。
2人のうち1人はノイローゼで自殺してしまった。
世論って恐ろしいですよね。
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